「斂葬の儀」に参列する喪主の彬子さま(26日午前、東京都文京区の豊島岡墓地) 11月15日に101歳で亡くなられた三笠宮妃百合子さまの本葬「斂葬(れんそう)の儀」が26日、豊島岡墓地(東京・文京)で営まれた。孫の彬子さまが喪主を務め、秋篠宮ご夫妻をはじめ皇族方、石破茂首相ら三権の長など481人が参列。長きにわたって皇室を支えてこられた百合子さまと最後のお別れをした。 天皇、皇后両陛下や上皇ご夫妻は慣例に従って参列せず、使者を派遣された。 喪主の彬子さまと秋篠宮ご一家、天皇家の長女、愛子さまら皇族方(26日午前、豊島岡墓地) 百合子さまのひつぎを乗せた霊車は26日午前9時ごろ、港区元赤坂の三笠宮邸を出発。皇居前などおよそ11キロの道のりを経て、豊島岡墓地の葬場に到着した。 告別式に当たる「葬場の儀」は午前10時ごろに始まった。 生前の功績をたたえる「祭詞」が読み上げられた後、最初に陛下の使者である別所浩郎侍従長らが玉串をささげて拝礼した。彬子さまはひつぎの前まで進み、拝礼された。秋篠宮ご夫妻ら皇族方が続かれた。 「斂葬の儀」の一般拝礼で手を合わせる人たち(26日午後、豊島岡墓地) 正午ごろからは一般の人の拝礼も行われた。 葬場の儀の後、ご遺体は東京都新宿区の落合斎場で火葬される。遺骨は同日夕の「墓所の儀」で豊島岡墓地内に埋葬される。 一連の儀式は三笠宮家の行事として営まれ、喪儀委員長は宮内庁の伊原純一・式部官長が務めた。同庁は「皇室における儀礼の一つとして、国家的弔意の対象となるという意味で公的性格を有している」と説明している。 百合子さまは、子爵で貴族院議員を務めた高木正得氏と、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政氏の姉、邦子さんの次女として、1923年6月に誕生。41年10月に大正天皇の四男(昭和天皇の末弟)の三笠宮さまと結婚し、3男2女をもうけられた。 葬場に到着した百合子さまのひつぎを乗せた霊車(26日午前、豊島岡墓地) 戦後は古代オリエント史の研究者となった三笠宮さまを生涯支えられた。公務に精力的に取り組み、恩賜財団母子愛育会の総裁を60年以上にわたって務められた。 今年3月に軽い脳梗塞や誤嚥(ごえん)性肺炎のため入院された。11月に入り心臓や腎臓など全身の機能低下が進み、15日に老衰のため亡くなられた。
天皇皇后両陛下の長女・愛子さまや秋篠宮家の次女・佳子さまなどが参列される中、26日午後5時半ごろ、三笠宮妃百合子さまの遺骨が埋葬されました。 11月15日、101歳で亡くなられた百合子さま。26日、本葬にあたる「斂葬(れんそう)の儀」が行われました。 午前9時ごろ、ご遺体を載せた車が長年住み慣れた三笠宮邸を出発。そして、午前9時半過ぎ、都内の墓地に到着。 「斂葬の儀」のうち、告別式にあたる「葬場の儀」には、秋篠宮ご夫妻など皇族方が参列されました。 黒いベールのついた帽子姿の愛子さまや、佳子さま、悠仁さまも葬儀場に入られました。 外には一般拝礼に並ぶ人の長い列も。元職員は「お仕えしていました、妃殿下に。我々には常に気を使ってくださる方ですので、こうやってインタビューされちゃうと思い出しちゃって…」と涙ながらに語りました。 午前10時過ぎに始まった「葬場の儀」。両陛下や上皇ご夫妻は、皇室の慣例で、参列せずに使いを送られました。 喪主の彬子さまが、玉ぐしを捧げられたのに続き、秋篠宮ご夫妻がご拝礼。 続いて、愛子さまも棺に深く拝礼され、佳子さまや悠仁さまも順に拝礼されました。 拝礼を終えた愛子さまは、厳粛な表情で再び祭壇に一礼したあと、車に乗り込まれました。百合子さまの孫にあたる彬子さまは時折、ハンカチで涙をぬぐい、別れを惜しまれました。 午後、祭壇に飾られたのは、百合子さまの遺影。 1日で900人以上が拝礼に訪れたということです。
線路脇の斜面にできた人だかり。カメラを構える撮り鉄たちです。 さらに、あぜ道にも列をなしています。 すると、列車に触れそうなほどスレスレで撮影する危険行為によって緊急停止する事態に。 撮り鉄たちによる危険行為が起きたのは、群馬県を走る人気列車の“ラストラン”でした。 JR信越本線などで使用されたディーゼル機関車と電気機関車、通称「DLぐんま」と「ELぐんま」。 老朽化で旅客列車としての運転を終えるため、多くの鉄道ファンが集まっていました。 そんな有終の美に水を差したのが、今回の危険行為でした。 高崎駅と横川駅の間を走る「DLぐんま」と「ELぐんま」。 磯部駅と安中駅の間にある通称“イソアン”と呼ばれる人気の撮影スポットでした。 「ELぐんま」が田んぼ道を走っていると、突如、列車が緊急停止。 よく見ると、線路の脇ギリギリに多くの人がいました。 一歩間違えると大惨事になりかねない危険な行為。 さらに、直後にも再び緊急停止。 よく見ると、撮り鉄と思われる集団は逃げるように猛ダッシュで去っていきます。 列車に乗っていた鉄道ファン:“危険なところで撮っている”自覚があって、警察に捕まるのが嫌だから、必死こいてダッシュで逃げたのではないかと。 一方、SNSで絶景スポットとして拡散された鉄橋には多くの撮り鉄が集結。 斜面を埋め尽くすほどの人だかりに。 中には川のすぐそばにまで入り込み、撮影する人までいました。 たびたび緊急停止となったことに乗客は、「敷地内侵入は遅延の原因にもなるので絶対にやめてほしい」と話します。 列車のすぐそばで撮影する行為が罪に問われることはあるのでしょうか。 鉄道ジャーナリスト・梅原淳さん:一番ひどい場合は列車が脱線して、しかも死者まで出たとなると「汽車転覆罪」というのがあり、死亡してしまった場合、死刑または無期懲役しかないので、たいへん重い犯罪になる。
東京・渋谷区で、トラックに跳ねられた8歳の男児が意識不明の重体。 事故は午後5時前に発生し、男児はトラックの下敷きになった。 現場には事故を起こしたトラックが残され、フロント部分が大きくへこんでいる。 近隣住民は、交通量が多く、特に子供と歩く際には注意が必要だと語る。 警視庁は、63歳のトラック運転手を過運転の疑いで現行犯逮捕。 運転手は10年以上勤務しており、これまで事故歴はなかったと報告されている。
埼玉県狭山市で、逆走するバイクが目撃される。 バイクはヘルメットを着用せず、道路の左端を爆走。 目撃者によると、バイクのスピードは約50キロ。 40代の男性ライダーが運転していたと推測される。 交通ルールを無視する行為に対し、驚きの声が上がる。 ドライブレコーダーの普及にもかかわらず、危険な運転が続いている。
子どもの手を引いて炎の機体から決死の脱出「心配するな大丈夫だ!」ロシア機がトルコの空港滑走路で炎上 制裁でロシア機の機体トラブル増加か トルコ南部のアンタルヤ空港で、ロシアのアムト航空機が滑走路で炎上。 機体左側のエンジンから出火し、乗客たちは必死に避難。 救助隊が脱出シューターから滑り降りる乗客を受け止め、子どもを手を引いて機体から離れる姿も確認。 消防隊の迅速な消火活動により、火は消し止められ、乗客95人に怪我はなし。 ロシアの航空業界はウクライナ進行に伴う制裁の影響で、機体の修理や部品調達に困難を抱えている。 今回の炎上事故により、空港は一時的に離着陸ができない状態となり、地元当局が原因を調査中。
女性がZOZOで購入した新品のコートから、100円ショップのレシートが発見される。 コートは約9万4000円で、特に中古の表記はなかった。 レシートの日付は今年1月で、店舗は宮城県名取市。 ZOZOは、コートが返品再生されたものであり、レシートが混入した可能性が高いと説明。 女性は赤ちゃんを抱っこするためのコートを探しており、信頼性に疑問を抱いている。 ZOZOは、詳細な原因の特定と再発防止に努めるとコメント。
東京・池袋で乗用車が暴走し11人が死傷した事故で、車を運転していた飯塚幸三受刑者が老衰のため死亡したことがわかりました。93歳でした。 2019年、豊島区池袋で乗用車が暴走し、松永真菜さん(31)と娘の莉子ちゃん(3)が死亡したほか、9人が重軽傷を負いました。 車を運転していた飯塚幸三受刑者は、法廷で「暴走の原因は車の故障」と主張しましたが、禁錮5年の実刑判決を言い渡され、刑務所で服役していました。 関係者によりますと、飯塚氏は先月26日、老衰のため、死亡したということです。93歳でした。 真菜さんの夫、拓也さんは。 松永拓也さん「(飯塚氏は)刑務所に入った。自分自身それを望んでいたけれど、彼が人生の最期を刑務所で迎えることになった。やっぱり無念だろうなと思うと、すごく複雑な気持ち」 拓也さんが今年2月に受け取った飯塚氏の謝罪の手紙には、ブレーキとアクセルの踏み間違いだったことを認める内容が書かれていました。その後の5月、飯塚氏との面会が実現し、飯塚氏は「高齢ドライバーに早く免許を返すよう伝えてほしい」などと話していました。 松永拓也さん「彼が亡くなる前に、面と向かって話ができてよかった。彼が僕の再発防止に対する思いに応えてくれたから、怒りとか憎しみだけじゃない感情で生きていけるきっかけを作ってくれた。そういう意味では感謝はしている」 松永さんは、妻や娘だけでなく、飯塚氏の死も無駄にしたくないといいます。 松永拓也さん「彼の後悔とか経験とか、言葉を託してもらったと思っている。彼の後悔を無駄にしないように。交通事故の現実を知って、多くの人にこの現実を知ってもらう。これが僕にできること。それを続けていく、自分の命があるうちは」
フィリピンのスラム街で大規模な火災が発生し、約1000棟が焼けました。 住宅密集地から立ち上る炎と黒煙。 現地メディアによりますと、24日午前、フィリピンの首都マニラにあるスラム街で大規模な火災が発生し、住宅など約1000棟が焼けました。 住宅の多くが軽くて燃えやすい素材で、出火当時、強風が吹いていたこともあり、火は瞬く間に燃え広がったということです。 これまでのところ人的被害の情報は確認されていませんが、約2000世帯が家を失い、多くの人が避難所に身を寄せているということです。 地元警察や消防が出火原因を調べています。 マニラでは2024年8月にも5階建てのアパートが全焼し、11人が死亡する大規模な火災が発生しています。